要 旨:日本の伝統的な文化芸術の中で、かつて遊女の芸を演じて、だんだん上品な芸術になったのが、歌舞伎しかないと言われている。周作人は、「日本は中国の文 化を真似して、かえって唐時代の宦官を取らなくて、宋時代の纏足を取らなくて、明時代の八股を取らなくて、清時代のアヘンを取らない」と驚いたという。再び日本の茶道、禅と歌舞伎を考えて、ちょうどこの差別なく受け入れることが日本文化の独特さを構成したことである。今日、歌舞伎はもう400年あまりの歴史をと通り過ぎた。1603年歌舞伎派誕生した。その祖は阿国だといわれている。それから、「遊女歌舞伎」「若衆歌舞伎」に到達して、最終に現在の歌舞伎の原型、つまり「野郎歌舞伎」になっている。
「歌」「舞」「伎」と書いて、かぶきと読むのは、あまり古いことではない。しかし、歌舞伎が固有名詞として定着していなかった。では、現在「かぶき」と称されるこの演劇は、江戸時代になんと呼ばれていたのか。それは「芝居」である。演劇といえば歌舞伎のほかにないのであったから、「演劇―芝居」とさえ言えば、これすなわち歌舞伎なのである。でも、「かぶき」ということばがなかったかというと、そうではない。「かぶき」の呼称は、すでに十三世紀の末からあったと考えられている。その場合のかぶきは、演劇の形である以前に、風俗のことであった。元祖出雲阿国が京へ出て、北野七本松に櫓を上げたとき、彼女は男装の麗入として舞台に立った。このような倒錯したもの、あるいは常態でない行為を“かぶく”といったようである。かぶくか、かぶいたとかいう用い方で「傾く」を意味したのであった。そこで、かぶきは、「傾城」と読ませ、芸と売春の両道により、興行が成りたっていた。「遊女歌舞伎」という言葉は、その実態を物語っているわけである。歌舞伎を上演するときに使う道具は、もっとも重要なのが三味線である。三味線は室町時代の末期に琉球から伝えられたという。そのほかに、笛や小太鼓や大鼓や太鼓などがある。歌舞伎を上演する劇場で、その日に第一番に発する「音」は一番太鼓である。一番太鼓はほぼ開演の一時間前となった。その次に打つのが「着到」で、現在はほぼ三十分前に打つ。歌舞伎に関する用語はいろいろある。例えば、大詰、大見得、大向こう、幕はきって落とされた、切りがない、縁の下の力持ち、引退の花道、値段をせり上げる、ドンデン返しなどがある。そして、歌舞伎を使った遊びもある。すなわち村芝居、通人芝居、旦那芝居である。また、歌舞伎脚本は歌舞伎の演出の台本であるから、その用語、文体ともにいろいろ独自なものをもっている。だいたい舞台書き(登場人物や場面の説明、舞台装置の指定などをしるしたもの)、せりふ(人物の会話)、ト書き(人物の動作、表情や伴奏音楽、音響効果の指定などをしるしたもの)三部分からなっている。