序論
『竹取物語』は9世紀末から10世紀始め頃に成立し、現存する限り日本最古の物語文学とされている。『源氏物語』の中でも、「物語の出で来はじめの親」と記されており[注
李永夏 2005年10月 『日本文学史』 :P.28]、日本人なら誰にでもそのあらすじが知られている、日本の古典文学を代表する作品である。 この物語にはさまざまな要素が盛り込まれているが、<竹取の翁>が竹の中から幼子を発見し、富を得るという致富譚や、<かぐや姫>が三月で成人するという急成長譚、求婚難題と求婚者たちの名前に密接な関連を持たせながら、それら求婚譚の顛末を語りつつその最後に巧みな「落ち」が用意されて語源譚となっている構造など、古物語の体裁を装い、実は古代小説の始発に位置する作品として完成度の高い内容を誇っている。
四川省のチベット族に伝承されていた『斑竹姑娘』という民話を1950年前後に中国の田海燕は、『金玉鳳凰』から採集して出版したが、その『斑竹姑娘』が『竹取物語』ととてもよく似ていることが後になって発見された。竹から小さな女の子が生まれる話や、五人の求婚者が難題に挑戦する話、そしてその難題の内容など、さまざまな点で『竹取物語』を彷彿とさせることが発見された。それは柳田国男の「自由区域」[ 柳田国男 1956年9月 『昔話と文学』 :P.16]という理論に合っている。したがって、『斑竹姑娘』が日本に紹介されてから、多くの学者はそれと『竹取物語』の関係に対しての研究を始めた。
例えば、百田弥栄子、君島久子[ 君島久子 1973年3月 『金沙の竹娘説話――チベット族の伝承』]、伊藤清司[ 伊藤清司 1973年2月 『かぐや姫の誕生』]という日本の学者たちは『竹取物語』の故典が中国の四川省のチベット族に伝承されていた『斑竹姑娘』という民話から材料収集されたものであることを推測した。逆に、三谷栄一[ 三谷栄一 1973年10月 『作り物語と説話』]はチベットの民話『斑竹姑娘』は、昭和の第二次世界大戦時に南下した日本軍兵士の語った竹取伝承と、当地に伝播しつつあった「斑竹」の民間伝承とが合成されたものと考えた。芳賀繁子[ 芳賀繁子 1987年12月 『「竹取物語」研究における「斑竹姑娘」の非資料性』]は戦前から戦後まで多くの中国の留学生が日本の『竹取物語』を国内に持ち帰って、改作されて『斑竹姑娘』になったと考えたのである。